代表ごあいさつ

八幡明彦記念基金について

2016年7月
八幡明彦記念基金 代表
八幡 惠介

明彦は私ども夫婦が自慢に思っている息子であり、2年前に亡くなった後もその思いは変わりません。

 思えば、明彦の数奇な運命は生まれた時から始まっていたのかもしれません。私ども夫婦は1961年に留学先のアメリカニューヨーク州のスケネアトレスというフィンガーレイクの一つである湖のほとりの教会で挙式し、翌年息子が生まれました。家族や知人の間では洗礼名のペテロ(英語ではピーター)でとおっていました。生後3か月で日本に帰国し、物心つくまで、妹の眞澄とともに英語で話していました。近所の子供たちと遊ぶようになってからは日本語に切り替えましたが、幼時に身についた英語は中学に入って復活し、バイリンガルの子供でした。中学生のころから熱心に教会で奉仕活動し、クリスチャンとしての日々を過ごしました。

 高校時代には主に数学で友人の勉強の手伝いをしたりもしました。中3のときにカシオの科学電卓で3次元方程式を解くプログラムを自分で作り、未来はフィールズ賞も夢ではないなどと親心では思ったりもしました。NECがパソコンのキットを販売したのを機にパソコンで迷路ゲームを開発して、NECからパソコン少年として表彰されたりもしました。京大に現役で合格し、数学を専攻しましたが、人間味のない数学よりも生物学を好み、生物専攻に転じました。

 京都在住の間九条の在日朝鮮人の子弟の家庭教師となり、両親から韓国語をならって、トライリンガルとなり、当時ソウルに渡って逮捕され、裁判にかかった張義均という学生を支援し、裁判を傍聴して記録をとり、和訳して日本の仲間に報告し、支援を続けました。仲間の多くは聖公会のクリスチャンで、キリスト教に基づいた活動が主でした。何事にも熱心に取り組み、信じた道をまっしぐらに貫く姿はそのころから生涯彼のバックボーンと言えるでしょう。

 その後NCC(日本基督教協議会)のスタッフとなり、京都で知り合い、結婚した幸美とともに上京し、共働きで子育てをしました。時には我々夫婦もベビーシッターをしたものです。NCCから香港のCCA(アジアキリスト教協議会)へ出向となり、家族帯同で、香港郊外の沙田に住まいを置き、そこで第2子を設けました。長女は萌、次女は沙和(沙田で生まれた日本人の意)と名付けました。明彦はその性格から妥協することができず、CCAの組織に安住できないまま帰国することとなり、それ以来キリスト教とは距離を置くことになりました。

 帰国後は専攻であった生物学の中でも無脊椎動物に興味を抱き、小学生の頃に感動した蜘を研究する道を選びました。蜘は環境に敏感な生物で、その生息状態を調査すると環境汚染の状態がわかる、という立場をとり、蜘の生息状況の調査を行い、自治体から委託を受け自作のナビゲーターを自転車に取り付けて3次元のナビゲーションにより報告書を作成するなどしていました。その最中東日本大震災が発生し、彼の心の中に大きな変化が生じました。そして彼の生きざまは再びまっしぐらに被災地支援へと向かったのです。その後の詳細は「僕が歌津にいた理由」の中に詳しく述べられています。

 残念ながら、被災地での支援中に自動車事故で亡くなりましたが、彼の支援活動を継続してくださる方々がいらっしゃる間はご芳志としていただいた香典等の全額とその後の寄付をもとに創った「八幡明彦記念基金」でいくばくかのお手伝いをさせていただきたく思います。